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みんなの「書評」ブログ


アラサーがカゲプロにはまった件について。あるいはメカクシティへの補助線。

2014/05/12 16:23

 いきなり私事で申し訳ないけれども、僕は来月30歳になる。職業は書店員だ。そういう人間が「カゲロウプロジェクト」(以下カゲプロ)にハマり、そしてこれからカゲプロについて語ろうとしている。その点をまずご了解いただきたい。

 僕はアニメ「メカクシティアクターズ」(以下メカクシティ)を心底楽しんで見ている視聴者のひとりだ。そして僕がツイッターでメカクシティについてコメントするといつも一定の反応がある。ただしその反応の仕方は好悪様々だ。また、僕の周りにもメカクシティを見、しかし何が面白いのかわからないという人が多くいる。どちらにせよ(どちらかというと悪の感情の方が優勢に見せるが)、メカクシティという作品は「目につく」というか、否が応にも関心を抱かずにいられないポジションにあるらしい。

 おそらく理由は「不可解さ」なのだろうと思う。

 とても人気があるらしいからということで視聴してみると、何が起こっているのか全く分からない。このわけのわからないものを興奮して見ている奴らがいる。あいつらはこのアニメの何をそんなに面白がっているのかわからない。そもそも何故このアニメの原作がそれほどに人気があったのかわからない。

 そう、人気がある。売れている。僕は書店員で、それを肌で感じている。発売当時からカゲロウデイズ小説版は人気があった。静かに、確実に。入荷するたび在庫はなくなった。購買層は9割が女子中学生だった。僕の書店の周りには、自転車で来れる範囲に中学校が3、4校ある。
 いける、と僕は思った。
 ボカロ小説をコーナー化して大々的に売り出した。売り伸ばした。大いに売れた。ボカロ小説コーナーは規模を広げ、常設コーナー化して、今も僕の店にある。この3月に発売されたカゲロウデイズ小説版5巻の初回入荷数は……僕の店では、ソードアートオンラインの2倍の冊数だった。
 SAOの2倍入荷して、2倍売れた。確かに僕の店はそれほどライトノベルが強い店ではないが(地方の郊外型一般書店にしてはそれなりの強さだが)、SAOが売れていないわけではなく、カゲロウデイズが売れすぎているのだった。

 そんな中高生に大人気の作品を、評判を聞いて手にした僕と同世代やそれ以上の人間もいるだろう。そして、その期待は大半が裏切られただろう。「若い奴らはこんなのを面白がっているのか」と思ったりしたかもしれない。そしてそれは恐らくアニメにおいても繰り返されている。

 僕はそんな人たちに、メカクシティ、ひいてはカゲプロを楽しむための補助線を用意したい。あるいは、あなたにとって面白くないものを、少なくとも僕がどう楽しんでいるか公開することによって、その不可解で気持ちの悪いシコリのような思いをいくらか軽減したい。

 これはとても主観的な文章で、だから、通常のブログの記事のスタイルではなく、半分ほど、僕が小説を書くときのスタイルを採用している。そんな論考未満の文章。そう思って頂きたい。また、この作品はどちらかというと、ネタバレを恐れずに積極的に情報を知って行った方が楽しめると信じているので、致命的なものを除きネタバレには配慮していない。読者としてカゲプロに関する基礎的な知識(メカクシティを3話程度までは視聴し、ニコニコ大百科の「カゲロウプロジェクト」の項を流し読みした程度の知識)のある者を想定しているので、物語がループものであることをはじめ、かなり説明を省いている。歌詞の引用がいくつかあるが、いわずもがな、それは全てじん(自然の敵P)によるものだ。

   ■

 先に僕の結論を言うと、このアニメ、またカゲプロの楽しみ方は、

「あなたもメカクシ団になること」

 だ。ただし、これは「信者化する」ことを単純には意味しない。「サッカーの試合を楽しむためにはまずサッカーファンになることだ」という主従の逆転した物言いでもない。楽しいからファンになるのであって、ファンになるから楽しいのではない。それは重々承知だ。

 では、メカクシ団とは何か。

 作品内では、メインキャラたちが所属することになる秘密組織の名前だ。といっても、もともと目的があって結成された組織ではなく、仲間たちの集まりに名前を付けただけのものと言ってもいい。もちろん、「能力者同士の相互協力」という理由もあるがそれは副次的なものに過ぎない。本質ではない。小説最新刊では「カゲロウデイズに立ち向かう」ことを団員共通の目的としているが、それは後付けだ。

 メカクシ団は秘密組織で、秘密基地で活動している。そこが重要だ。

 秘密基地。

 秘密基地という遊びが子供の時にそれなりに存在していた、という人の大多数は、そろそろオジサン、あるいはオジサンの入り口に立ちつつあるのではなかろうか。

 今、都市の子供たちが足を踏み入れるような危険な場所は更地化し、整備され、駐車場になり、箱ものが建ち、それでも残ってしまうなら封鎖される。公園の遊具は安全への配慮によって高度に洗練され、小学生には防犯ブザーを持たせ、見知らぬ男に声をかけられる事案が日々発生している。秘密の、危険な場所は……少なくとも都市部においては……日々駆逐されつつある。

 だが、子供はそれでも危険な場所を求めようとする。安全化された滑り台があるなら、そのチューブ化された屋根に上って頂上を目指す。

 子供には、秘密基地が必要だ。ちょっと危険な、普段の世界から隔絶した、大人の目の届かない魅力的な場所が。子供はそれを探す。数少なくなり、しかしそれでも大人の目を逃れて、どこかに存在してしまうそれを。

 ある子供たちは、それをニコニコ動画に見つける。

 アンダーグラウンドな文化が跋扈するネットの世界。しかも基本無料。アングラ感は過去よりなくなったとは言われているけれど、それは子供たちには関係ない。大人の目を逃れた、ちょっと危険な、自分たちだけにわかる魅力的な場所でさえあれば。

 子供たちはニコニコ動画という秘密の場所を見つけた。だが、それではまだ秘密基地ではない。秘密基地が秘密基地であるためには、秘密を共有する仲間が必要だ。

 キドには、カノが、セトが、そして他の団員たちがいた。では、ニコニコ動画に集う現実の子供には?

 いた。画面の向こうに、それは、コメントという形で。

 濱野智史はそれを「疑似同期性」と呼んだ。

擬似同期型のニコニコ動画では、必ずしもユーザー同士が互いに同じ時間・場所を共有していなくても、あたかも同じ「いま・ここ」を共有しているかのような感覚を得ることができます。その感覚は、動画の再生タイムラインに沿ってコメントを保存・再現するという、ニコニコ動画のアーキテクチャの作用によってもたらされる一種の「錯覚」です。客観的な視点(第三者的な視点)から見れば、非同期的な各ユーザーの行為も、動画を再生するユーザーの主観においては、リアルタイムなものとして「錯覚」される。この効果によって、ニコニコ動画は、ユーザー同士が同じ「場」(=動画)を共有していなくとも、効率的に「いつでも祭り中」の状態を生み出すことができます。
――濱野智史「アーキテクチャの生態系」より


「いま・ここ」に、同じものを楽しんでいる者がいるという、臨場感の共有、共犯感。それによって、子供たちは仲間を得た。ここに、秘密基地は完成する。パソコンという箱の中に、大人の目に触れない秘密基地が。

「秘密基地を共有すること」、これが僕の考える「メカクシ団になる」ためのひとつの要件であり、また、僕の考える、中高生にカゲプロが大きく支持される要因になったものの一つだ。

秘密基地に集まって
「楽しいね」って単純な
あの頃を思い出して
話をしよう

――「サマータイムレコード」より


   ■

 では、秘密基地を得た団員たちは、何をするのか。ひとつは、「駄弁ること」だと考える。

 よく見られるメカクシティに対する批判のひとつに、「無駄な描写ばかりで話が進まない」というものがある。確かに、話は進まず、キャラたちは無駄話ばかりしている。毎回、Aパートは団員たちの駄弁りだけに費やされている言っても良い。

 ここで問題になるのは先行作品の存在だ。制作会社であるシャフトには、「駄弁り」を芸の領域まで研ぎ澄ませた作品である「化物語」がある。それに比べて、メカクシティの駄弁りは、化物語並みの尺が取られているにもかかわらず、全く洗練されていない、本当に団員たちのただの無駄話だ。比較されても仕方ない。
 ところで、これはアニメ独自の問題ではなく、小説版でも彼らはとにかく駄弁る。僕など小説版2巻を読んだ時点で、「ここまでの話、1冊にまとめられるよな?」と思った。単なる尺稼ぎではないか、と。そして今でも、それは尺稼ぎだと思っている。

 でも実際、「駄弁ること」の本質は尺稼ぎだ。今駄弁っているあなたといるための時間を稼ぐための。あなたとの時間を共有するための。

 団員との時間の共有、団員と一緒にいること。これは作品内においても非常に重要視されている。

 カゲプロとよく比較される先行作品に、竜騎士07による「ひぐらしのなく頃に」がある。これは話の構造、受容のされ方、メイン購買層など、とにかく共通点が多い。ところでこの物語において、悲劇を乗り越えるための支配的ルールとして「仲間を疑うな」が存在したことは、ひぐらしの物語を通過した者には周知のことだろう。
 僕はカゲプロにも、これに等しい支配的ルールが存在していると考えている。すなわち、

「ひとりぼっちになるな」だ。

 メカクシ団は彼らが独りぼっちにならないために存在する、疑似家族的な組織だ。そして、物語内でも、悪いことが起こるのはたいてい独りぼっちになった時だ。アザミが独りぼっちになってしまったことがそもそもの悲劇の始まりであり、アヤノの行った「独りぼっちの作戦」が現在のメカクシ団にとって直接的な悲劇を生んでいる。エネを失い、メカクシ団にも出会わなかった独りぼっちのシンタローは自殺するし、モモは自分の能力に潰されそうになり、コミック版4巻があのような展開になったのは……おそらくコノハがヒビヤとヒヨリに出会わなかったせい。彼を独りぼっちにしてしまったせいだ。

目を合わせないで!
固まった心、一人ぼっちで諦めて
目に映った無機物に安堵する日々は
物語の中でしか知らない世界に少し憧れる
ことくらい許してくれますか?

――「空想フォレスト」より


単純に理想叶ったとして 一人ぼっちじゃこの世は生きていけない
「それも嘘?」 「いやいや、本心だよ?」
崩れそうな脳が『No』で満ち満ちていく

――「夜咄ディセイブ」より


「それじゃあ、明日も
見えないままですよ?」
それならそれで 良いさ
つまらない日々を
殺す様に手を染め、
『一人』を選ぶから

――「ロスタイムメモリー」より


「赤目色、それが私なら
誰かの未来を 救えるかな」
不器用で、情けない
独りぼっちの作戦だ

――「アヤノの幸福理論」より


Let's 「daze」
心を消さないで
Let's 「change」
一人で泣かないで

「孤独」なら 塗り替えれる
「ひとりぼっち」を変えようとした君となら

――「daze」(メカクシティOPテーマ)より


 このようにして、独りぼっちにならずに、団員と時間を共有する手段として、メカクシ団の「駄弁り」は存在する。それは物語レベルでもそうだし、現実レベルでもそうだ。現実レベルのメカクシ団たち……カゲプロを視聴する中高生たちも、駄弁る。カゲプロ関連楽曲をコメント有りで再生してみると良い。中高生たちの、大して意味もない、たわいもない言葉で埋め尽くされていて、ある世代より上の人間ならゲームセンターや画材屋などに置かれたコミュニケーションノートを思い出して目を覆いたくなるだろうから。しかしそれこそが、メカクシ団の「絆」の維持の仕方だ。彼らのとっての居心地の良い空間の名前こそが「メカクシ団」だ。メカクシ団の居心地の良さは、小説内においても、……表現こそ直接的で稚拙だけれど……シンタローの独白により所々で強調され続けている。

 ……ちょっと待て。何だオレたちは。子供か。いや、キドが異常なまでに「お母さん」なのか。
 本当に、いつのまにやら完全に友達の家にお泊りに来た感覚になってしまっている。
 今朝方はメカクシ団の連中に対して「なんだこいつら、胡散臭え」と眉根にしわを寄せていたが、たった一日で随分と馴染んでしまった。
 しばらくぶりに人と話すオレですら、こんなに簡単になじんでしまうほど、ここの連中は気さくなのだ。

小説版「カゲロウデイズIII -the children reason-」より


   ■

 かくして結成し、時間を共有したメカクシ団。では、それからはどうするのか。秘密基地、秘密の仲間。それらを手にしたなら、あとは、「秘密の作戦」を決行するのだ。

独りぼっちが集まった
子供たちの作戦が
また今日も廻り出した

――「サマータイムレコード」より


『カゲロウデイズ攻略作戦』。小説版3巻で、作品内にはっきりと登場した作戦名だ。

 物語はループしている。死んだ者を取り込み、永遠に時間の中に閉じ込める世界「カゲロウデイズ」によって。あるいは、カゲロウデイズに連なる、とある能力と悲劇によって。
 ひとつのループは大抵、「アウターサイエンス」などで提示されたように、「メカクシ団の死」によって幕を閉じるようだ。何もしなければ彼らには死が待っている。それを乗り越えて未来をつかむために足掻く、それが『カゲロウデイズ攻略作戦』だ。

 物語レベルのメカクシ団たちの悲劇とあがきを、現実レベルのメカクシ団は見ている。そして、こう思う。「メカクシ団に幸せな結末が訪れてほしい」と。

 カゲプロの物語は、たくさんの悲劇と悲劇の可能性を提示しておきながら、それらを回避する方法については、要素をいくつか提示するだけで、全く明かしていない。読者にはそれがストレスになる。だから、考察する。どうすれば「幸せな結末」が訪れるか。人と話す。議論する。読み込む。動画にコメントする。創作する。ツイートする。あるいはこのように、ブログの記事にする。

 それらすべてが、『カゲロウデイズ攻略作戦』だ。こうして、現実レベルのメカクシ団と、物語レベルのメカクシ団の行動が一致する。作戦を始めた者は、メカクシ団の一員だ。

 メカクシ団と共に戦うこと。戦いを共有すること。これこそ、「メカクシ団になる」ためのもう一つの要件であり、この「メカクシ団に参加している」臨場感こそがカゲプロファンをカゲプロにのめり込ませる要素の一つだと僕は考える。

 だからこそ、カゲプロはSNSとニコニコ動画の発達した現代において多くのファンを取り込む作品となりえたし、SNSとニコニコ動画の発達した現代では、こういう作品が必要とされていた。その作品を必要としていた中高生に届かせるために、この作品はVOCALOIDによる楽曲として世に出なくてはいけなかった。カゲプロにおける、「楽曲をVOCALOIDにする意味」は楽曲そのものには根ざしていなくて、むしろ僕もアニメ劇中で人間によって歌唱されたもののほうがずっと良い曲に聞こえる。だけれど、届くべき相手に届ける手段として、この楽曲群がVOCALOIDによって歌われたことには意味があったと思う。だから、カゲプロを「ニコニコ上がりの素人がボカロ人気にあやかって作って、まぐれでアニメ化された作品」のような目で見るのはやや早計だ。

   ■

 以上が、僕の考える、カゲプロの読み解き方、そしてカゲプロの受容の方法論だ。これで「ああこいつらはそういう事考えてるのか」と思って頂けたなら幸い。「そういうのは俺はダメだな」と思うのなら、それはそれで判断材料を提供できたことになる。あるいは、もし興味を持ったなら、あなたにもメカクシ団になって欲しい。メカクシ団になる方法は文中に提示したとおりだ。
 まずは、楽曲を聴くこと。wikiやニコニコ百科事典で、ネタバレを恐れず情報を集めること(どれだけネタバレを目にしても、原作はわからないことだらけだし、思ってもみない展開を見せるから大丈夫だ)。それからアニメを見ること。それでも情報が足りないと思ったら、小説やコミックを読み漁り、二次創作を読みあるいは作り考察し議論すればいい。

 そうしてあなたがメカクシ団になった時、メカクシティOPテーマ「daze」の歌詞が、全く違うものに見えているだろう。

参考文献
たまごまごごはん
[メカクシティアクターズ]俺たちは戦いたいわけじゃないっす「メカクシティアクターズ」第三話
(このブログ主様はカゲプロへの理解も深く、他の話の記事もおススメです)

はてな匿名ダイアリー
私はこうしてカゲプロにはまった

飯田一史
『「オタク」は死語になっていた』(一迅社のアニメ雑誌「Febri」掲載の連載記事)


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【書評もどき】「村上春樹いじり」を読んだ。

2013/12/13 23:34

村上春樹いじり
三五館
ドリー

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「やれやれ、僕は射精した」

 この言い回し、村上春樹を読んでいなくとも、ネット界隈にある程度の長さコミットしている人なら一度くらい目にしたことがあるだろう。もちろん(あるいは流石に)、こんなフレーズはそのまま春樹の小説に出てくるわけではなく、これをネットに書きこむ人もそれを承知でネタとして書いてるわけだけれど、ある意味ではこの短い文章は村上春樹という作家のエッセンスをこの上なく上手く凝縮しているといえなくもない。
(このエッセンスを短い言葉でいうなら、「ディタッチメント」「春樹的クール」「セックス」の3つということになるだろう。知らない言葉があっても意味は別に考えなくていい)

 だからこそ、このフレーズは、どこまで行っても「やれやれ、僕は射精した」でしかない春樹小説への嫌悪を表して書くのと、あるいは、真面目な顔をして射精するオッサンという冷静に考えるとかなり異様な絵面を茶化して書くのと、両方の立場から今も愛用されているのだと思う。

 そして、この「村上春樹いじり」という本は、村上春樹に興味を持てない人、村上春樹が気になる人、村上春樹を読んでもわけが分からなかった人に、
「とりあえず春樹の作品に込めたメッセージとか置いておいて、『やれやれ、僕は射精した』って面白がろうぜ!!」
 という提案をするという立場の、かなり斬新なブックガイドだ。

 ところで村上春樹は、その小説を知ってしまった時点で、
「あなたは村上春樹が好きですか?」
 という踏み絵的な問いを強要するタイプの作家だと思うのだけれど、先に僕の立場を表明しておくと、

「面白いけど、気に入らない」

 という回答になる。そもそも僕が春樹を知ったのはなんと大学生になってから、それも春樹ヘイトがまるで窒素のように空気中に漂う文学部日本文学専攻という空間で、アンチ春樹の急先鋒として一部で超有名な批評家の教授から、生れて初めてその名を聞かされたのだ。下手をすると純粋培養のアンチ春樹にすらなりかねなかった、作家との出会いとしては考えうる限り最悪のスタートであると思う。それでも僕は春樹を読み、自分の頭で考えて今の立場にいることを表明しておく。

 まぁ、僕のことは良い。要するに、僕は春樹に興味があり、どちらかというと「やれやれ、僕は射精した」と面白がるタイプだったので、この「村上春樹いじり」にはすぐに興味を引かれて読んでしまったという話だ。

 この本のポリシーは、以下の三つに集約されている。
 ちょっと長いけど重要なので引用する。


 もしこの本を手に取られたあなたがこの本を、おそらく装いを見て「村上春樹を誰でもわかりやすく紹介してくれる優しいブックガイド」と思われたのなら、それは誤解です。もちろんブックガイドです。わかりやすいのもお約束します。しかし読んでもらえればわかりますが、この本はブックガイドと銘打っておきながら、あまり村上春樹の小説を褒めておりません。むしろ貶している評までございます。
 しかしどんな評であっても、その本を読んでほしい。いくらつまらなくても、そのつまらなさを読まずに切り捨てるのではなく、じかに見て確認してほしい、という魂胆は、ほかのブックガイドが持つ意思と変わりません。(本文 p1〜2)


 ちょっと読んでみてもまったく「良さ」がわからず、村上春樹のある「特異な作風」になんだか背中がむず痒くなる。(中略)その村上春樹が嫌いな方が大方感じるであろうスノッブさやら、キザさやら、そういう村上文学の「イヤな部分」を本書では「おかしみ」に変えたいという試みを実践しており、「女と寝る」「ジャズバー」「オンザロック」などという村上文学のアイテムにめざとく反応しては「なにがオンザロックだよ」と合いの手を差し伸べ、「笑い」という肯定的な感情を起こしたいというのが、手前味噌ではありますが、本書がほかのブックガイドとは趣向の異なるもうひとつの試みでもあります。(本文 p3)


「よくわかんねぇ」って文学作品には言えない空気って、あると思うんですけど、そこをね、勇気を振り絞って言ってみてほしいのよね。そこから始まるものもあるし。
 文学作品に接したときに、自分の感想が言えない。よくわからなかったんだけど、馬鹿にされそうで怖い、みたいなところから読書離れって生まれるんだろうと思うし。よくわかんないで(筆者補足:この本の作者が)これだけ語れるんだから、まずは読んでみて自分の感想を言える土台を作ることが重要ですよ。だからもし読書人口を増やしたい、村上フォロアーを増やしたいっていう本書のようなブックガイドでも「よくわからねぇ」は全然言っていいし。むしろ積極的にどんどん言っていこうよ。
 ボクは何度でも言うぞ。よくわかんねぇ!!!(本文 p182)


 この三つを軸に、この本は春樹文学の解釈やら小難しいことを打っちゃり、春樹主人公の超然としたクールな態度、やけに小洒落た言い回しなどを「春樹的クール」と名付け、徹底的にツッコんでいく。「風の歌を聴け」についての評から引用すると、

 この春樹的クールさにのせれば、あらゆるフレーズもなんかかっこよさげに聞こえます。たとえば122ページの「僕は自分が一時間ごとに年を取っているような気さえする。そして恐ろしいことに、それは真実なのだ」というなにか名言めいたフレーズもよく考えてみると「当たり前だろボケがぁ!」と思わず小突きたくなるシロモノですが、なんかそれらしく見えてきます。「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕達はそんな風にして生きている」(P90)という言句も、なんかかっこよさげなことを言っているようで、よく考えたら別にたいしたこと言ってません。雰囲気です。(本文 p13)


 と終始こんな調子で、「こいつ、クソだわ!」「ぶん殴るぞ」「ボケ」「死ね!」という言葉とともにズバズバっと春樹のいやらしいところに斬り込むさまは見ていて非常に爽快で、「ビール」「コーヒー」「サラダ」「バナナダイキリ」などといった春樹的クールアイテムにいちいち突っかかっていくさまなど、僕は腹を抱えるほどに笑ってしまった。

 だからと言って、ただ単に春樹をネタにして貶すだけの本なら僕がこうして記事を書こうと思わなかっただろう。こういう笑いを誘うネタを連発しながら、なにげなく作者は鋭い視点を発揮していて、それがすごいのだ。

 本文中の章題から抜き出してみると、

『下世話なスケベ根性を排除する春樹』
『人様に顔向けできる「喪失」や「悲しみ」』
『春樹の悪いクセ=「男が求めることを女から切り出す」』
『春樹文学のいつものガラス工芸ヒロイン』
『「その答えはどこまでいっても、イエスでありノーだ」』


 ……などなど、僕のようなある程度春樹を春樹のままで受け入れられる人間が見逃してしまいがちなところにズバっと切り込む話題がたいへん多い。他にも秀逸な章題が多いので紹介したいが割愛する。
 この作者が提示してくれる視点、実は僕には既視感があり、それは何を隠そう、前述した僕に村上春樹を教えた批評家、渡部直己の春樹論だったのだ。もしこの作者が指摘する「春樹的クール」「春樹的ご都合主義」を渡部直己に語らせるなら、「悪しき黙説法」「自己愛の肯定しかない小説」という若干小難しい言葉になるだろう。渡部直己が文学者向けに言っていたものを、作者はいとも簡単に、万人にわかる言葉で指摘しているのだから、僕は本当に恐れ入った。

 つまり何が言いたいのかというと、この本は良くも悪くもとても軽薄で、なおかつガチなのだ。僕のような下衆な根性を持った春樹読者なら是非読むべきだし、春樹が嫌いな人や春樹を読んでも分けがわからなかった人も読んでみるといいと思う。特に、「わからないならわからないと言っちゃえ!」という作者の態度には大変共感した。特に春樹作品には「わからないところに何か大切な何かが書いているような気にさせる」詐術が盛りだくさんなので、わからないと言うと馬鹿だと言われそうな恐怖があり、そこで敬遠してしまう人も実際多いだろうから、この本がその恐怖をちょっとでも軽減し、春樹を読んでバカ笑いできる人が増えれば作者にとって本望だろうし、僕だって嬉しい。

 ……ところで、ここから下の記述は、ただでさえ書評になっているか怪しいこの文章の中で、さらに書評から遠いものになる。

 読み終わって、この本のamazonレビューを眺めていると、

「読みが浅い」
「表面的な部分にしかつっこめてない」
「分からないなら分かってから書け」

 などという批判が散見される。
 この記事でも挙げた、「読んでほしいからこそ良いところも悪いところも正直に書く」「メッセージとか意味とか置いといてとりあえず春樹的なサムシングを面白がる視点を提供する」「わからねぇものはわかんねぇままでいいだろ」という三つの軸は、本文中で何度も反復して出てくるというのに、あたかもそれが目に入らなかったように、だ。

 もちろん、こういう事を書く人たちに「じゃあ春樹がこの作品に込めたメッセージって何ですか?」って聞くと誰一人として答えられないことは目に見えているので、そういう大人げないことはしない。
 僕は考えた。なぜ、このようなことを言い張る人たちが出てくるのか。その原因をこそ考えるべきではないかと。
 そして、春樹の作風……春樹的クールの応酬、定番的な春樹的クールアイテムの配置という要素を、改めてこの本を読んで俯瞰し、ひとつ、思いつきを得た。

 これ、ジャンル小説じゃん。

 ジャンル小説、すなわち、ミステリ、SF、恋愛、時代小説……といった、「○○もの」と呼んでひとつのクラスタを形成できる小説群のことだ。
 ジャンル小説にはそのジャンル特有の「お約束」があり、そのお約束展開やお約束アイテムを組み換え換骨奪胎することで、そのジャンル内でのその作品の個性が生まれるのだ。なので、ジャンルの背骨を為すそれにつっこんでいては、作品をまともに楽しめないだろう。
 たとえば……ここではわかりやすく、漫画の例を挙げるけど、

 名探偵コナンに、
「なんでコナン達は毎回殺人事件にでくわすんだよ」
「コナンがしゃべってるの見えるだろ! 気付け!」
「犯人がいつもちゃんと自白するのはなんでだよ!」
 と言い、

 ニセコイに、
「なんでこんなヤツがこんなにモテるんだよ!」
「こんな都合のいい美少女いるわけねぇだろ!」
「鈍感すぎるだろ!!! 死ね!!!!!!!」
 と言ったところで、作品は揺るがないのだ。

 なぜならそれはジャンルものを構成するピースたちであり、それらの組み合わせ、組み換えによってジャンルは成り立っているのだから、そこにつっこむのは、それは初めからその作品を読む意思がないに等しいのだ。

 つまり、
 ミステリにおける「犯人」「探偵」「ワトソン役」「殺人事件」「トリック」
 ラブコメにおける「無意味にモテる主人公」「美少女」「幼なじみ」「ラッキースケベ」
 と、
 村上春樹における「コーヒー」「サラダ」「パスタ」「やれやれ」「セックス」
 は等価だと読めるのではないだろうか?

 ならば、村上春樹の小説はもはや「純文学」ではないし、「文学」ですらない。
「村上春樹文学」という名のひとつのジャンルを一人で作ってしまったのだ。言うなれば、立川談志が落語の中に「立川流」を作ってしまったのと同様に。

 そう解釈すれば、この本を読んで顔を真っ赤にする人たちの心情もいくらか理解できる気がしてくる。この本は、彼らにとって春樹というジャンルの根本を茶化すだけの本なのだ。最初から読むなと言われても仕方はないかもしれない。

 とはいえ、例えばめだかボックスという漫画について、信者よりもアンチの方が作品についての読みが深かったり詳しかったりする事例もあるし、コナンについて「バーローwwwwww」「ネタバレ:コナン=新一 → んなわけねーだろwww」という茶化し方をして楽しむという楽しみ方も、またひとつの作品の受容のしかたとして存在していいはずだろう。

 最後に、動画をひとつ紹介したい。
 ニコニコ動画に挙げられている「ゲーム実況動画」のひとつで、「Dance!Dance!Dance!」というゲームの動画だ。
 ここまで読んだ方なら、このタイミングでこの動画を紹介する意味をもう察しただろう。この動画を楽しめる人なら、百パーセントこの本を楽しめるだろうと、保証して、筆をおくことにする。




(僕が今まで読んだ春樹に関係する本も挙げておく)


リトル・ピープルの時代
幻冬舎
宇野 常寛
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大塚 英志
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