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zoom RSS 【ネタバレ】劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語

<<   作成日時 : 2013/10/31 22:09   >>

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あまりにも、これは、語らざるを得ないように出来上がっている映画なので、らしくないのは承知の上でブログなど使って見ます。

もちろんネタバレしかないよ。










































一言で言うなら。

「まどかマギカは神学」

でしたね。勿論一言では言い切れないたくさんのものがあったのですが、言い切れないがゆえに、この一言で済ましてしまいたいところでもあり、しかし、それはパンフレットを見る限り制作側にとって望ましくないでしょう。なので、僕もその思惑に乗ってこのような文章を吐き出してしまうことにします。

この映画を観終わって、僕がまず最初に思い出したのは、舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」でした。この小説がどのような小説かと言うと、発表当時、世の中はどこぞのハーラン・エリスンのタイトルのパロディの孫引きパロディのタイトルがついた映画の牽引した「純愛」ブームまっただ中で、広告業界はとりあえず「純愛」と言っておけば一定以上の評判を得られる安牌を手にしてウッハウハな状態でございました。要するに、「純愛」と銘打たれた何かが、物語を再生産するための道具としてひたすら消費され続けていたのです。その「様式化」=「メタ化」されてしまった「愛」について、「メタ化されてしまった、抜け殻になってしまった愛を、それでも愛として語る」ことに挑戦した小説、一言でまとめるならばそんな小説でした。

「好き好き大好き超愛してる。」は、「柿緒」と銘打たれた連作短編のあいだに、おそらく「柿緒」の語り手である小説家が書いた小説であろうという解釈ができる(もちろんそうではないという解釈もできる)別のバラバラの短編小説が挿入されるという形式を取っています。その全部が、「愛」について語っているのですが、ひとまず、ここで必要なのは「柿緒」の章なのでそれを説明します。

「柿緒」の章は、小説家である語り手と、不治の難病によって死んでしまった恋人との関係を描いた、例のエリスン孫引き小説のパロディともいうべき構造をしています。そこで違うのは、例の小説では物語を駆動させる道具として使われていた「愛」を、その外側からメタ的に考察することで、逆説的にメタ化することを防いでしまっていることにあります。
(いい加減まどかの話から逸れてますが辛抱してください)


 愛は祈りだ。僕は祈る。
 (中略)
 祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
 (中略)
 この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。

         ――「好き好き大好き超愛してる。」冒頭

 そして、肝心の僕が思い出した一節は次のものです。この、「叛逆の物語」においてほむらがやってしまったのは、こういう事なんだと思いました。

 くそ、僕はバカだ。僕は他の人がうっかり言い忘れそうな言葉はちゃんと柿緒に言っておいたつもりだったけど、ただ一言、言い忘れてしまった。「好きだ」「愛してる」「ありがとう」「忘れない」「柿緒はすでに僕の一部だから、僕の中でずっと柿緒は生き続ける」なんてウンコみたいなことばっかりは言ったけど、いや、それは言えて良かったんだけど、でもたった一言、「死なないでくれ」と言うのを忘れた。(中略)僕の本当の気持ちを全然言ってなかった。僕は本当は柿緒に死なないでくれと泣いてすがりたかったんだ。病気のまんまでもいい、辛い思いが続いてもいい、痛くて苦しんで泣いたり喚いたりひどい有り様でもいいから、そんなの我慢して生き続けてほしいと、自分勝手なことを頼みたかったんだ。でも柿緒にそんなこと言っても、癌を抱えてどうしようもないだろうと、僕は遠慮してしまった。アホですよ。ホント。

         ――同小説、単行本版39ページ〜40ページ

 ほむらは、まどかが望んだ「魔法少女が希望を持つことが肯定できる世界」を肯定し、前に進むということでテレビ版は終わりました。でも、それは本当の本当にほむらが望んだことだったのか?
 他のすべての魔法少女のために自ら生贄となることを望んだまどかに、本当は「犠牲になんてならないでくれ」と言いたかったのではないか?

 そして、それを実現させた結果、ほむらは悪魔になった、と。神に対等にものを言うためには、サタン(ヘブライ語で反逆者の意)になるしかなかった、と。とはいえ、中盤までは、ほむらはまどかの意思を尊重して、まどかを、世界を肯定するために、呪いを抱えたまま永遠に魔女として閉じこもる決意をしています。なのに、ほむらの本当の気持ちを肯定してしまうきっかけを作ったのはまどか自身というところが、この物語のままならないところであり、世界の悪意だと思います。

 とはいえ、こうなった以上、これはほむらにとってはこの上ないハッピーエンドで、ほむらの立場に立つ限り視聴者もハッピーエンドだと断定するしかないんですよね。「愛の物語」として完結してしまってる。でも、その完結を破られることすら、ほむらにとっては幸福でしかないでしょう。まどかを否定したほむらを、またまどかが否定する。それをまた否定する。それだけが、「悪魔」としてのほむらが「円環の理」まどかとの間で許された、唯一のコミュニケーションなのですから。もうこうなったらいかなる物語が再生産されようとほむら無双ですよ。優しいのもキモチイイ痛いのもキモチイイ状態。割りを食うのはキュゥべえだけ、という。あまりにも哀れすぎる。クソインキュベーターがあああああ!とか言ってごめん。百合カップルの痴話げんかに付き合わされてボロ雑巾になるしかないとか、マジで同情する……。

 ひとまず煮えた脳での僕の見解はそんな感じですが、でもこれ制作陣からの大きな宿題でもありましたよね。

「円環の理を書き換えたほむらの世界とは、どんな世界だと思う?」

 という。「魔法少女が希望を搾取されるシステム」を否定した「まどかシステム」=「円環の理」=「魔法少女が希望を肯定される世界」、それを否定した世界とは。でもぶっちゃけこのほむほむ「まどか」が存在を許されるならどんなずさんなシステムでもいいやとか言い出しそうでマジ恐い。愛ってこわい。

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